チャンギ発・自分の★の見つけ方チャンギ発・自分の★の見つけ方@エミルタージュ美術館inサンクトぺテルブルグ セルゲイ・シチューキン ロシアで織物商を営む大富豪のセルゲイ・シチューキン(1854-1936)は 早々に商売の拠点をパリに移し、モスクワに住む妻のため パリで絵画を購入してはロシアに送っていました。 もともとは絵画の道に進みたいと考えていたほどの芸術肌であったシチューキンの審美眼がまだ当時評価の定まっていないピカソやマティスの絵を射止めました。 後には色遣いの奇抜さから野獣派(フォービズム)と名付けられ、 最初パリのサロンでは酷評を受けたマティスのパトロン的役割も果たすことになります。 当時のシチューキン宅の「マティスの間」 シチューキンのロシアの邸宅にはマティスだけでなく、 「ピカソの間」や「セザンヌの間」と言った絵画ホールが来客をもてなし、 また新たな邸宅を飾るためマティスに製作を依頼した一枚が 現在エルミタージュ美術館にある「ダンス」です。 青と緑を基調にし男女5人が手をつなぎ躍動的に踊るこの絵画が20世紀初頭の人々にどのような印象を与えたかは知るよしもありませんが、 実はシュチューキンはこの絵があまり好きではなかったという逸話もあります。 ダンス 今から20年ほど前にIBMがスポンサーとなって製作した ドキュメンタリー「エルミタージュ美術館」で 初めてこの美術館とセルゲイ・シチューキンのことを知りました。 同時期シチューキンと同じように絵画を鬼集した人物にイワン・モロゾフがいて、 モスクワにあるプーシキン美術館の方に多くが展示されているようです。 時はちょうどロシア革命前のロマノフ王朝時代で、 1917年に起こった10月革命によって皇帝ニコライ2世と その家族は処刑されました。 社会主義という新しい制度の下、富裕層の持つ財産はすべてソビエト連邦に没収されたのです。 シチューキンやモロゾフも絵画を含む全ての財産を失い、 シチューキンは命からがらパリへと亡命しました。 ドキュメンタリー番組の最後はやつれ果て見る影のないシチューキンを マティスがパリの街角で見かけるが、 あまりの姿に声をかけそびれるというエピソードで終わっていました。 ただ今回のエルミタージュ美術館訪問の後、シチューキンの伝記を読むと 晩年は二―スで静かに幸福に暮らしていたと書かれています。 二ースと言えばマティスが晩年を過ごした場所です。実は2人の深い芸術の絆は途切れることなくずっと続いていたのかもしれません。 現在「エルミタージュ美術館」が所蔵するマティスの絵画は85点で、 ロシア政府の所有となっています。 シチューキンの子孫のほとんどはフランス在住のフランス人で、 絵画の所有権については今もロシア政府と争っているようですが、 シチューキン自身は最後まで自ら集めた絵画は ロシアに残して欲しいと託していたようです。 「私個人のためではなく、ロシアのために絵画を買い集めたと」いう言葉を残して。 マリーローランサンのこの絵もシチューキンが集めたもの。 パステル画の印象が強いマリーローランサンのこの油絵は強い インパクトがありました。 抽象画で有名なロシアの画家カンディンスキー の1枚。マティスの絵と見間違えるほど、強く マティスの影響を受けている。 日夢が叶って「Shall we Dance?」 2011年9月1 |